8. ゴルトベルクの夏

 バッハのゴルトベルク変奏曲。(数年前までは「ゴールドベルク」と表記しましたが、今はこの方が一般的だそうです)この大曲の存在は小学生の時から知っていましたが、初めて楽譜を目にしたのは大学生の時でした。手が小さくて弾けるのはバッハとモーツァルトと近代フランスものしかなかった私は、毎年やってくるピアノの試験で弾く曲を選ぶのに苦労していたのです。

 ある時ピアノの先生が「ゴールドベルクを抜粋でやってみれば?」とおっしゃいました。さっそく大学の図書館に行き、楽譜を見ましたが「やってみたい」という気持ちはまったく起こらず、音を出さないまま楽譜を返してしまいました。

 初めてこの曲を聴いたのは80年、鍋島元子先生のリサイタルでした。このときは途中で楽器のトラブルが発生し、演奏を一時中断する、というハプニングがありましたが「1曲で1つの演奏会ができてしまうなんてすごい曲だなー」というのが実感でした。先生は「いろんな時代や国の作曲家のものを弾くより、1曲だけの方が楽なのよ」とおっしゃっていましたが、第15変奏まで40分近く弾き続けること自体が驚異でした。

 それから楽譜を買い、少しずつ譜読みを始めたものの、まず第1変奏で壁にぶつかりました。当時はレオンハルトのレコードしか持っていなかったのですが、同じようなテンポで弾いてもどうもしっくりこないんです。それでまた挫折しました。ただ第25変奏は「きれいな曲だなー」と思い、譜読みをしました。

 チェンバリストにとっては必須のレパートリーですから、いつかはレッスンを受けたいと思っていましたが、ついに留学中も最後まで譜読みをする事はありませんでした。

 帰国してから何年目だったでしょうか。やっと譜読みができたのでベルギーに行ってコーネン先生のレッスンを受けました。でも、この時は所々アドヴァイスを下さっただけで、その後さらってみたものの、演奏会にかけるまでには至りませんでした。

 10年以上前から愛媛県の松山で定期的に演奏会をさせてもらっているのですがある時「是非ゴルトベルクを」と言われました。それがずっとひっかかっていて「いつかはやらなければ」と思っていましたが、目先のことに追われ、なかなか実現しなかったのです。

 おととしあたりから「そろそろゴルトベルクを弾かないと、きっと一生弾かないで終わってしまうだろう」という思いが芽生え始めました。それで、おととしベルギーに行った際にレッスンに持って行きました。ちょうどその年の5月、コーネン先生が来日なさっていたのですが、リハーサルにお邪魔したところ、先生は「第16変奏」をさらっていました。「なんでゴルトベルクをさらっているの?」と聞いたところ「9月に弾くんだ。この曲を弾くには最低3ヶ月は必要だ」とおっしゃいました。先生はすでに何度も演奏していらっしゃるにも拘らず、です。

 この時のレッスンの様子は「エッセイ5」に書いてあります。

 去年の夏、松山でリサイタルがありました。この時すでに「次はゴルトベルクを」と思っていたので、「来年はゴルトベルクをやらせてください」と話しました。その予告のつもりで、アンコールに「アリア」を弾きました。

 今年は「ゴルトベルクの年」と位置づけて、元日からさらいました。ただ、1月は31日にリサイタルがあったので中断。3月から本格的にさらい始めたものの、この曲ばかり弾いているとかえって行き詰ってしまったのです。そこで、急遽7月にリサイタルを組みました。この時は「インヴェンション全曲」を弾いたのですが、ゴルトベルクと平行してさらっていると、両方にうまい具合にアイデアが湧いてきました。

 7月のリサイタルが終わり「ゴルトベルク一本だ!」と思ってさらい始めましたが、通して弾くにつれて、テンポ設定に悩みました。1つ1つの変奏を弾いていると「これでいいかな」と思っても、いくつかの変奏とつなげてみるとしっくりこないんです。特に悩んだのは「第3、4、19変奏」です。また、最も難しい「第20,26変奏」もなかなか弾けるようにならず、苦労しました。

 また悩んだのは「繰り返し」の問題です。全部繰り返すと80分以上かかってしまいます。それに「第25変奏」は後半も繰り返すとかなり長い。そこで「後半を繰り返さない変奏」と「必ず繰り返す変奏」だけ決めておき、あとはその場で考えることにしました。

 いつも演奏会に来てくれる友人が「演奏会じゃなかなか手の動きが見えないからいつか近くで見てみたい」と言っていたので「じゃ、ゴルトベルク全曲通すのに付き合ってくれない?」と頼みました。本番の1週間前にこうして「リハーサル」ができたのです。全曲通すと、やはり問題点が見えました。まず、60分以上弾いたところで弾く「第26変奏」はやはり苦しいこと(特に感情移入する第25変奏の直後なので余計に難しい)そしてテンポ設定が決まらない変奏がいくつかあることなどです。1週間でなんとかテンポは決まりました。ちょうどコーネン先生に用事があってFAXした時「もうすぐゴルトベルクを弾きます」と書いたら「速い変奏は速く弾きすぎないように」と返事が来ました。

 本番はマチネだったので、前日から松山入りしました。堀榮蔵さんの楽器を池末隆さんが3日間かけてヴォイシングしてくれていたので、とても弾きやすい状態になっていました。本番は落ち着いていたものの、前半はいまひとつ気持ちが乗りませんでした。第15変奏の後で15分間休憩を入れたのですが「このまま後半の序曲にいくのはまずい」と思って気分転換を試みました。打ち上げで「後半の序曲はガラッと変わってよかったですねー。休憩時間に何をしてらしたんですか?」と言われましたが、それは「秘密」です。問題の第26変奏をなんとか終え「あとは気力だ」と思って気が緩んだら第29変奏でグチャグチャになってしまいました。集中力は最後の1音まで保たないといけませんね。

 ・・・というわけで一応無事に終わったのですが、このまま弾かないとまた何年先になるかわからないので、年末か来年早々に東京の個人のお宅で演奏する予定です。11月のレコーディング(オールバッハです)の準備と平行して練習しなければなりませんが、今年は私にとっては「1年遅れのバッハイヤー」だと思ってもう一度ゴルトベルクを練り直したいと思っています。

2001.9.13